昭和52年4月17日 特別奉修員における教話     末永信太郎

 特別奉修員の方達の信心と言うならば、まあ、言うならば合楽の信心でハイクラスの人だと思うんですよね、皆。ですから、あの、どういうところが、そのハイクラスと言われるような信心かと言うと、昨日、神様から頂いたのは、土という字を大きく書いてね、そして点々を打って、こう〔ほし?〕という字を、幸せという字になりますよね。下の方を小さく頂いて、上の土という字を大きく頂いたんですけどね。

 だから、この幸せという字を、なら、まっ、こう逆さまにしても、やっぱり幸せと、だから読む訳です。ね。非常にあの、とくに〔    〕その土という、上の土を私は大きゅう頂いたという事が、そのやっぱりあの、土の信心。合楽で何と言うても、一番素晴らしいというのは土の信心だと思うです。もう、本当にあの、もう黙って受けるという事。もう黙って受けるという事は、さっき、今日も申しますように、大きくなるという事は、もう黙って受けることですよ。

 もう、昨日私はもう、色々な事を大祭前にあったんですけども、以前の私ならもう、大祭、それこそあの、不浄が入ったような気がして、何かあの、だったでしょうけども。その点おかげを頂いて、最近おかげ頂いておるという事は、あれは2~3年も、4年もなりましょうかね。あの、元旦祭の時に、お稲が落てた事があったたい。ね、あの、荒い稲が。あん時なんかでも、私がもう、全然引っかからんで、後ろ、あのお礼を申し上げたといったような事があん時も言ってましたがね。

 私はあの、信心のおかげというのは、これだと思うですね。いやあ、もう元旦早々こげな事のあってとか、御大祭ば、もう今仕えよると前に、こげなこつば、言うち来てとかというのではなくてね。それが、ならどんな場合であっても、幸せという事はそれなんです。今あの、高山さんからお届けがあったんですけれども、昨日、あそこの前で大事故があった。ところが、おかげを頂いてから二人の子供がその自動車の中から、こうやって這い出て来たち。

 6年生の子供が運転して来とったげな。それでもう、自動車はめちゃめちゃじゃけれども、おかげで助かったと。あの、それがちょうど大祓いを三巻あげ終わったとこじゃったげな。なら私は、そりゃあアンタがたん前じゃったけんおかげを頂いとるとばいて私が言うたら、それが先生、今その大祓いば三巻あげた、終わったとこじゃったち言う。ね。だから、ここのあの、居眠り運転で、今の合楽教会の看板の上がっとるところの向こうのね、あの、コンクリのあれが。

 コンクリば向こうに押しやるごたる、あの、激突をしとるとですよね。もう、もちろん、大型自動車の立派なモンじゃったばってん、もうめちゃめちゃじゃった。それをあの、ここの何て言うですか。あの、草野の駅の前の牟田さんという何が、私はそのお盆に十日ぐらいしてからでした。北野かどっかへ行くのに、あの人の運転で行きましたもん。ここは、先日お宅には前で大事故があったが、あれはもう、あの、死んどったでっしょち言う訳ですたい。いいえ、そのおかげ頂いてから、本当、金光様の前じゃったけんで助かったち言うてお礼に出て来ましたよち。

 ほお、アンタあれが助かったち。ちょうど、私はあの人が激突した時に通り合わせたげなたい。それで、もう自分でもどうにも出来んから、電話かけてあげたのが私じゃったちゅう訳、どこかに。て言うて、言いよりましたが。本当に教会の前じゃったけん助かったとかね。そこへ私は思うんですけども、昨日も私はまだ見ておらんけど、あの、便所の厚いガラスが割れておる。はあ、あれは、えらい音がしました。そこへ、あの、御祈念前でしたが。そしたら、そのガラスが割れとるとやけんで、ほれは、もう大怪我したっちゃしょうなかごつとこうやったけども、まあ、大怪我もしとらなかった。

 ほれで、その事をお届けがありましたから私が、あの、お広前で起こった事はどげな事だっちゃおかげになるよち私が。ね。もう、どげな事っじゃったっちゃおかげになるよという事が、私は、ね、あの、土という字を大きく頂いて、こう、あの幸せという。人間の幸せというのは、どんな場合であっても、だからおかげになる、これがおかげの素になると信じられた時に、私は人間の幸せという事が言えると思うですよ。ね。

 だから、そん為にはね、例えば自分家の前で起こった、自分かたで起こった、お広前で起こった事、それはもうおかげになる。それは、もう何処ででもそうだろうけども、まして信心のある者の家、ましてお広前で起こった事。もう、どういうそれが、なら忌まわしいその、例えば問題であっても、それはおかげ。お広前で起こった事はおかげになるよという、この確信が、私は段々出けて来なきゃ。まあ、そういう意味で、まあ皆さんの場合は段々そういう信心が出けて来よると、こう思うんですよね。

 だから、それをいよいよ、本当なものにして行かなきゃならない。しかし、もう信心を頂いて行く心の中というものは、もう私は、これはその、合楽でなからなければ、こういう心の、あの何と言うかね。進展というのはないのじゃなかろうかと、思うんです。もう、本当に、まあ、どんな場合であっても有り難い、有り難いで行けば、誰でん知っとりますけども、自分の心の中にそれが頂けるという事は、やはりもう、もう毎日、毎日けいこだけじゃなくて、見たり聞いたりがね、その実証が、もう間の辺りにいつも見たり聞いたりしとらなければ出ける事っじゃないように思うですね。

 もう、それが即ですからね。即おかげ。お広前で起こった事じゃけん、おかげになる元じゃとこう、思えれる心なんです。ね。ですから、幸せと、人間の幸せというのは、ね、まともに見ても幸せなら、ひっくり返して、真っ逆さまになったっちゃ幸せと思えれるのでなからなければ、本当の幸せじゃない。自分の都合のヨカ時だけが、もう私、世界の幸福モンだと言っとったんじゃね。これは、ほんなこっちゃないという事ですよ。信心はそこんところを一つ頂いて行かなければならないと思う。

 勇さんが、お爺さんになられました。はっは。おかげで、もう難産の〔  〕があったけれども、おかげで、もう大変無事な安産なおかげを頂いて、息子が生まれたっち。はっはっは。